カントの定言命法について
高校生の頃、とても面白く楽しみにしていた授業がありました。
それは若い非常勤講師の方(失礼なことにお名前は失念してしまいました)による倫理社会の授業です。内容はデカルトを始めとする西洋哲学に関するものでした。
とかく知識を一方的に教える授業が多い中で、この人の授業は生徒たちに様々な疑問を投げかけた上で、それをいっしょに考え解決していくスタイルで行われ、哲学者たちの思考を追体験させてくれるといった趣がありました。
中でも力が入っていたのがカントの道徳哲学で、1学期の期末試験の前には「テストでカントの定言命法を書いてもらうので覚えておいて下さい」と言われたのです。
おかげで今もその内容はしっかり覚えていて、物事を考える上での指針にさせてもらっています。
今月はその「定言命法」についてお話してみようと思います。

カントの定言命法とは
「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」
という短くシンプルな文章です。ただ特殊な哲学用語が使われており、このままでは何を言っているのかわかりにくいと思うので以下順を追って説明していきます。

まず「定言命法」の「定言」という語句には「絶対的、無条件に」という意味があります。
(これに対し対義語である「仮言」は「ある条件のもとでの」という意味になります。)
そして「命法」は「従うべき命令、義務」という意味なので、
これらを組み合わせた定言命法は「無条件に従うべき命令、義務」という意味になるのです。
(ちなみに対義語の「仮言命法」は「〜するために従うべき命令、義務」となります。)
つまりカントが無条件に従うべきとしたのが先に上げた一文なのです。

この文中で耳慣れないのが「格率」という語句だと思います。
これはカントの提唱した用語で「自分の行為を決める規則」のことです。
よって「汝の意志の格率が」は「あなたの意思を決める規則が」という意味になります。

つづく「普遍的立法の原理」は「誰もが従うべきことを決める際に基づく基準」といった意味合いなので、定言命法を平たく言い換えると、
「あなたの意思を決める規則を、いつでもそのまま誰もが従うべきことを決める際の基準にしても問題ないように行動しなさい」ということになるでしょうか。

定言命法に込められたカントの主張を自分なりに解釈すると以下のようになります。

自分がある行為をするときの判断基準に基づいて他の人たちが従うべき規則も決めたとしよう。そうすると多くの人達もまた自分と同じ行為をすることになり、単独での行為にくらべ大きな影響をもたらすはずだ。そうなったときにいったいどんな事態が生じるのか?それをしっかりと考えてみる必要がある。とことん考えた結果、人々が「生きやすくなる」などのプラスの影響がもたらされると確信できるのならばその基準は妥当なものであり、それに従って行為すべきである。逆に「対立や混乱が生じる」などマイナスの影響が予想されるのであればその基準は妥当なものでなく、それに基づいた行為はすべきではない。
と言うことになると思います。

ここで重要なのは「妥当しうる」かどうかの判断は自分自身で考えて下すものであるという点です。判断の基準は自己の外部にあるのではなくではなく、自分自身の理性的な思考によってもたらされるのです。
この点がカントの道徳哲学の革新的なところだと思います。

ふつう道徳というと「〜を大切にしなさい」「〜を愛しなさい」あるいは「〜をしてはいけません」「〜に従いなさい」いうような外から与えられる規範のような印象があり、善悪の基準は自己の外部からもたらされる、あるいは教えられるもの感じている人が多いのではないでしょうか。
ところがカントの提唱した近代的な道徳では、自分の行為が妥当であるかどうかを自分自身で考えて判断するのです。
ただその際に自分の主観的な信念などに基づいて判断をしてはだめで、客観的な根拠を持って普遍的に通用するような判断をしなければなりません。そのためには自分の「格率」を一般化したときに何が起こるのかを理性的に考察することが必要になるのです。
たぶんそれを定式化したのが「定言命法」なのではないかと思っています。
もちろん個人の下した判断がいつも正しいという保証はありません。結果的に間違った判断をすることあるでしょう。しかしいつも自分の外部に客観的な正解があるわけではないのでこれは仕方がないことなのです。重要なのはしっかり考えた結果「妥当しうる」と確信できる格率に基づいて行為することであり、カントはそれこそが道徳的であると主張しているのだと思います。

またこの定言命法はあくまで個人の行為に関するものであり、規範とかルールの決め方そのものを云々するものではありません。しかし私達の周りには暗黙的なものも含め既に出来上がった規範やルールが溢れています。そのため個人がなにかの行為をしようとすればそうした規範やルールに従うべきなのかどうかを問うことが多くならざるを得ません。そのため定言命法の「汝の意志の格率が」の部分が実質的には「直面している規範やルールが」になることもよくあると思います。その時、それらを無批判に受け入れてしまうのではなく、それが「普遍的立法の原則として妥当する」のかどうかを自分自身で吟味し、それを確信できるのなら従い、確信できないのならそうした規範やルールの改定を主張するのがカントの言う意味で道徳的な態度なのではないでしょうか。
以上が「定言命法」に対する自分なりの解釈です。

自分は高校時代に受けたこの授業のおかげでカントの定言命法を知り、それからは自分が従うべき規範やルールに対しその根拠を考えることが習慣になったのです。
時には「根拠がない」と思わざるを得ないルールに出会い反発することもありました。それ故にたぶん周囲からは「生意気な奴」と思われたこともあったと思います。それは若気の至りという面もあったのかもしれません。
ただ今もなお私たちの周りには意味のないルールが多く残っているのではと感じています。

そして時が経ち学校という場所で仕事をするようなると、自分がルールを作り、それを子どもたちに守ってもらうということも必要になってきました。
そうなると自分の判断基準でルールを作ることが妥当なのかどうかを考えなければならないし、作ったルールを守ってもらうためには根拠をわかりやすく説明できなければなりません。
そんな時にはいつも定言命法を意識してきたと思います。

ただ本当に必要なのはルールに頼ることなく、子どもたち自身が定言命法に基づいて行動できるようになることであり、それは生野学園が基盤としている共同生活の中でこそ身につくものだと思っています。
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