「気づき」や「発見」をもたらすもの
-- Apple出社再開のニュースにふれて --
コロナ禍が続く中、リモートワークを取り入れる企業が多くなっているようです。
「自由に時間を使える」「通勤時間が無い」などのメリットも多いため、たとえコロナが収まってもこの流れは変わらないのではという意見も聞きます。
ところが、そうした流れとは一線を画す企業のことが先日報道されていました。
11月19日付けの日経新聞の記事によると、時代の最先端をゆく企業の一つであるAppleが現在リモートにしているオフィス部門の勤務を2022年2月から段階的に出社に切り替えていく決定をしたとのことです。

なぜAppleは出社にこだわるのでしょうか?
実はAppleという企業のことをある程度知っている人にとってはあまり不思議なことではありません。創業者のスティーブ・ジョブズの伝記などを読むとわかるのですが、Appleには人との交流、それも同部門の人だけでなく、異部門の人たちと関わることを大切にする社風があるのです。
例えば2017年に竣工した本社ビルの設計にあたっても、各部門をフロアごとに細分化するのではなく、広大なドーナツ型のフロアの中に共用スペースを挟んで各部門を配置し、自然に様々な分野の人の間で交流が生まれるような構造が採用されています。
これは単に「親睦を深める」といった目的ではなく、自分とは違う目線やスキルを持った人と関わることにより、今まで自分には見えていなかったことに気づいたり、新たな発見をしたり、思ってもみなかった斬新なアイデアが生まれたりすることがあるからなのです。実際ジョブズの伝記を読むと数々の革新的なイノベーションがこうした部門の異なる人との関わりの中から生まれたことがわかります。
そして、こうしたことは様々な人達が時間と場所を共有し、その中で自由に対話や議論を繰り広げることによってはじめて可能になることであり、リモートの環境では実現することは困難なのでしょう。
確かに決められた仕事を処理したり、決められた議題を限定したメンバーで協議するのであればリモートのほうが効率的なのかもしれません。でもそれはイノベーションを生み出すような環境ではないのです。
このあたりが今回Appleが出社再開の方針を打ち出した理由ではないかと思っています。

こうした企業活動に限らず、人がなにかに気づいたり、発見したり、新たな発想を得たりすることはとても大切なことだと思います。でも、それは一体どんな条件があれば起きるのでしょうか?
以下そのことを少し考えてみようと思います。

まず「気づく」「発見する」あるいは「わかる」といった変化に共通する特徴は、それがいつ起きるのかを前もって予見することが出来ないということです。人は「何かに気づこうとして気づく」ことは出来ません。もし気づくべき内容がわかっているのなら、その人は既に「気づいている」わけで、新たに気づくことは原理的に不可能です。当たり前のことですが「気づき」はそれが実際に起きるまでは時期も内容も全くわかっていないのです。
そのため「気づき」や「発見」は、それ自体としては、その人の内部で起こる「内的な体験」なのですが、それを自分では意識的にコントロールできないので、どこか「外からもたらされる」という印象を伴います。
そして実際そうした変化は「他者との関わり」や何らかの「外的な体験」がきっかけとなって引き起こされることが多いのです。
「偶然出会った人と話す」「偶然手にした文献を読む」「気分転換のために散歩する」「休憩のためにコーヒーを飲む」・・。こうした他者や外部との関わり、あるいは体や五感を使った体験が引き金となって「ふと何かに気づく」「突然何かがひらめく」といったことはみなさんも経験されているのではないでしょうか?
このようにいろいろなことが「気づき」のきっかけになります。
でも「何がきっかけになるのか」は前もって予見することは出来ません。これも実際に起きてみてはじめて分かることなので、偶然性に頼らざるを得ないのです。

そのため「気づき」や「発見」を効率よくもたらすためには、人々の関わりが自然に生まれる「共有の空間」をつくるAppleのような方法が有効になるのだと思います。自分の担当部門で集中して仕事をしたあとで、気分転換のために共用スペースでコーヒーブレイクしながら居合わせた他の部門の人と会話をするという環境は確かにいろいろな「気づき」をもたらしてくれる気がします。

もう一つ重要なことは「気づき」や「発見」はあくまで「内的な変化」なので、いくら外的な「関わり」や「きっかけ」があっても内部での準備が整っていなければなにも起きないということです。
たとえ「気づき」や「発見」の内容が外部にある知識であっても内的な準備が出来ていなければ、それを受け入れることはできないと思います。
この辺りのことはフランスの数学者アンリ・ポアンカレが自らの発見について語っていることが参考になると思うので紹介しておきます。

ポアンカレはある数学の理論を構築する際に難問にぶつかり、なかなか解決の方法を見つけられませんでした。そのうち他の用事で忙しくなり、その問題を考えることはやめていたのですが、ある日旅先で乗合馬車に乗ろうとしてステップに足をかけた瞬間に解決の方法が頭に浮かんだといいます。その時は詳しく考える時間がなかったので、あとになってこの方法を集中して考えたところ、理論はかなり進展したのですが、あと一歩のところで予期せぬ別の難問が現れます。そのうちポアンカレは兵役に就かなければならなくなり、再び思考は中断しこの問題は頭の中から去ってしまいます。ところがある日、大通りを横断しているときに突然すべてが蘇り、解決の方法がひらめいたそうです。
ポアンカレの場合、直接のきっかけとなったのは「ステップに足をかける」「道路を横断する」という、身体的な体験でしたが、それは「集中して考える時期」と「いったん問題から離れる時期」を経た後のことです。このことをポアンカレは「突如として啓示を受けることはある。しかしそれは無意識下でずっと思考的研究がずっと継続していたことを示している」と言っています。
集中して意識的に考える時期だけでなく、無意識下で考えが熟成していく時期があった後に、外的なきっかけがあって啓示を受けたかのように発見に至ったわけです。
もちろんすべての「気づき」や「発見」がポアンカレのような壮大なドラマを伴っているわけではありません。しかし「集中する時期」「内的に熟成する時期」「外的なきっかけ」は多かれ少なかれ「気づき」や「発見」には必要な要素なのではと思っています。

さてここから先は「我田引水」のそしりを免れないかもしれませんが、生野学園が基盤としている「生活」には「気づき」や「発見」をもたらしてくれる要素がふんだんにあると思っています。
実際、寮での共同生活ではたくさんの人との関わりが生まれるし、予期せぬ出来事もたくさん起きます。正直、相当のエネルギーが要るので大変なのですが、そうしたことに向き合い対処することが「気づき」や「発見」を伴う主体的な成長につながっていくのだと思います。これは長年生野学園で生活する子どもたちを見てきた経験と、自分自身の学生時代の寮生活の体験から確信できることです。
いっぽう教科の学習という狭い範囲に限って言えば、リモートでの仕事のように、家にいて通信教育で決められた課題を一人でこなしていくほうが効率が良い場合もあるかと思います。でもそこには「気づき」や「発見」につながるような環境が十分にあるわけではありません。
通信教育は教科学習以外に何か「やりたいこと」あるいは「やるべきこと」がある人が、時間的な制限がある中で効率よく学習するという目的のためにはとても有効でしょう。しかし単に「楽だから」という理由で選択するのであれば、主体的な成長につながる体験は得にくいと思うのです。
Appleが社員の出社を決断したように、多くの子どもたちが寮での共同生活を体験してほしいと願っています。