言葉の本質と「対話」について
先月の雑感ではオープンダイアローグという精神療法を紹介させていただき「対話」の重要性についてお話しました。
簡単に振り返っておくと次のようになると思います。
1. 人は生理的に感知した世界を直接生きているのではなく、言語によって分節され社会的・文化的に共有された「意味の世界」を生きている。
2. この「意味の世界」は普段は自明なものとして存在し空気のようにほとんど意識されることはない。
3. 統合失調症の発症段階では何らかの原因によってこの「意味の世界」にゆらぎが生じてしまう。
4. 意味のゆらいだ状態に長くとどまることは非常に苦しいことなので、患者さんは安定を取り戻すために無理にでも意味づけをしようとする。
5. その結果「共有された意味の世界」との間にズレが生じてしまう。
6. 健常者からすれば荒唐無稽に思える話をしたり、聞こえるはずのない声が聞こえたりすることにはこうした背景がある。
7. オープンダイアローグは患者さんを含めた複数の人達の間で「開かれた対話」をすることにより「意味の世界に生じたズレ」を修正し、患者さんがふたたび「共有された世界」を取りもどしていくことを助ける試みである。

この話をうけて、今回は子どもたちの認識の発達における「対話」の意味について考えてみます。
なぜ精神療法の話が子どもたちの発達の話につながるのかというと、「すでに獲得した意味の世界に生じたズレ」を修正することに対話が有効なのであれば、社会的・文化的に共有された「意味の世界」を獲得していく過程、つまり子どもたちが認識面で発達していく過程においても対話は重要な役割を担っているのではないかと思うからです。
それを以下順をおって説明していきます。

生まれてきた子どもは当然まだ言語を解しません。それは自らの五感で感知した世界を直接的に生きているということです。すでに言語を習得している私たちにはなかなか想像することが難しいかもしれませんが、乳幼児の様子を見ているとそれは身体的な欲求に左右され不安定で未分化な刹那的に移り変わる世界ではないでしょうか。
こうした子どもたちにとって言葉は自らの外部で大人たちが交わす会話としてたち現れます。 そこから言語の習得が始まるのですが、このことを考える前に言語ついて2つのことを確認しておきたいと思います。

1つめは言語学者ソシュールが指摘した「言語の恣意性」です。どういうことかというと、目の前にある「赤い物体」を「りんご」という人たちもいれば、「Apple」という人たちもいて、さらに「omena」という人たちもいることからわかるように対象を表す記号は何でも構わないということです。

2つめは例えば虹の色を7色に分ける文化圏もあれば、5色とする文化圏もあるように対象の分け方も必然的に決まっているわけではないということです。一般にある対象群がその文化圏に生きる人々の生活に密接に関わる場合は非常に細かく分節されそれぞれに名前がつけられますが、関わりの低いものは大雑把に一つの言葉で表されたりします。つまり言語による対象の分節の仕方は、対象との関わり方や関心の持ち方によって変わってくるものであり、万人に共通のものではないのです。

このように言葉はあらかじめ存在している物につけられた名前ではないし、なにか外部に「こうでなければならない」という根拠があるわけではありません。それは世界には多種多様な言語体系が存在し、それぞれの大系間で言葉を正確に一対一に対応付けることが難しいことからも明らかです。

それではいったい言語の習得はなにを基準にしたら良いのでしょうか?
それはただ「人々の間ですでに使われているように使う」ということだけなのです。「使われているように使う」というと自己撞着のようでわかりにくいかもしれませんが、歴史的に形成されてきた言葉の使い方そのものがその言葉の根拠であり、その使われ方に自体に言語を共有する人たちの生きてきた文化が反映されているのです。
このように言語が絶対的な根拠を持たず、人々の間で暗黙のうちに共有されているルールのようなものであることを、哲学者ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と表現しています。

余談になりますが、googleの技術者アミット・シンガルは検索システムの開発にあたり、ウィトゲンシュタインの理論を応用したと語っています。AIに高度な文法理論を教えるのではなく、例えばある言葉が他のどのような言葉と一緒に使われることが多いかといったようなこと、つまり「言葉がどのようにつかわれているのか」を膨大なデータにより徹底的にAIに学習させることで検索の精度が飛躍的に上がったといいます。その結果AIはあたかも「意味がわかっている」ような反応を返すことができるようになったのです。

話をもとにもどすと、子どもたちは大人たちが話す言葉を聴き、自らも真似て言葉を発してみることで言葉の意味を少しづつ理解していきます。言葉の習得は「言語ゲーム」に参加し、実際に言葉を使ってみることで初めて可能となるのです。
そしてこの過程は、AIの学習のように「言葉の使われ方」だけを覚えるのではなく、それまで未分化だった自らの感知している世界が言葉を介して分節され対応付けられていくという変化を伴います。それが「言葉の意味がわかる」ということなのです。
人間には五感をとおして「生きている世界」があり、言語の習得によりその世界が分節されていくのです。この点がAIの学習との決定的な違いではないでしょうか。膨大なデータに頼らずとも直感的に言葉の意味を理解していくことができるのは人間が「自らの生きる世界」を持っているからだと思います。
逆に「生きる世界」を持たないAIであっても「言葉の使われ方」を徹底的に習得することでかなり自然な対応ができるという事実は言語システムの効率性を示しているのかもしれません。

このように子どもたちは「すでに使われている言葉」を介して自らの生きる世界を分節していくことで、社会的・文化的な意味の世界を獲得していくのですが、それは同時に自分自身の生きる世界が変化すること=自分自身が変化するということであり、本質的に主体的な行為であるといえます。

また先にみたように言語による対象の分節の仕方には絶対的な根拠はありません。ですから同じ言葉を使っていても他者との間で意味がずれている可能性は常に存在します。そして言葉の意味はそれぞれの人が生きている世界の中で生じるものであり、その世界はその人の固有のものなので、第三者的な視点から「ずれていないか」を確認することは原理的に不可能です。
ではいったいどうすればよいかというと、当事者どうしが対話によって確認し、すり合わせていく以外に方法はありません。実際の対話の中で意図がうまく伝わらなかったり、相手の反応が予期したものと異なっていたりすることから少しずつ「意味のズレ」に気づいていき、さらに対話を続ける中でそれを修正していくことを続けていくしかないと思います。それはまさにオープンダイアローグで行われている「開かれた対話」であり、言語の習得の過程でもそれは決定的な役割をもっているのです。
つまり言語の習得はその本質からして「対話」を必要とするのです。

そして言語の習得は段階的に進んでいくものでもあります。
当たり前の話ですが子どもたちにいきなり高度な抽象概念を教えても理解できません。まだ経験が少なく「生きている世界」が狭ければ「その世界に無いものを意味している言葉」に接しても分節される対象がないのですから分かるはずがないのです。言葉の意味が分かるためには体験を積み広がってきた世界のなかで「まだ分かっていない」けれどあと少しすれば「分かる」ような言葉に接することが必要なのです。
このように言語の習得は体験によって「生きる世界」が広がりそれが新たな言葉によって分節されていく=言葉の意味が分かるというという過程であり、本質的に「体験」も必要とするのです。

さて、このように子どもたちは「主体的」「対話的」「体験的」に言語を習得することで社会的・文化的に共有された世界を獲得していくのですが、そこには大人の手助けが絶対に必要です。
なぜなら言語は子どもたちが生きている世界の外部にあるもので、放っておいても子どもたちの内部から言葉が生まれてくることはないからです。言語は大人たちが意識的にそれに接する環境を作ってあげなければ絶対に習得できないのです。
大人たちが会話するのを聴かせること、子どもの発達に応じて子どもたちが「分かりそうな」言葉を話しかけること、子どもが発する言葉に耳を傾けそれに応答すること、そんなことができる環境を提供するのが教育の基本的な役割の一つです。

歴史的にそれは家族とそのまわりの共同体によってなされてきたのではないかと思います。
近代化した社会では、以前にお話させていただいたように習得しなければならないことが増え、よりシステマチックな「公教育」も必要になっていますが、小さな子どもたちにとって、こうした家族や共同体の役割は今も必要とされているはずです。
ところが現状では核家族化がすすみ、地域共同体のつながりも薄れ、また経済的な理由により子どもたちと向き合う時間が取りづらい家庭も増えています。その一方でテレビやネットのような「対話的」でない一方通行で間接的な経験が増えてきていますが、これでは身につけることに限りがあるでしょう。近年の子どもたちの語彙力、読解力の低下の背景にはこうした問題があるように思われるのです。
ですからそれに変わる環境を作っていくことが焦眉の課題となります。例えば地域の老人と子どもが共有するスペースを作る取り組みなどはとても有意義なことだと思います。

また子どもたちの認識の発達過程を考えればシステマチックな公教育においても主体的、対話的な学習を重視するべきでしょう。新指導要領でも「主体的・対話的で深い学び」が提唱されています。
しかし現状ではまだまだ一方的に知識を与える一斉授業が一般的で、意味を理解することなく問題の解き方だけ暗記させたり、ドリル的訓練で条件反射的な速さを身に付けさせるようなことも行われています。こうした方法は確かに目先の課題をこなすためには一定の有効性はありますが、「分かる」という主体的変化を伴わないため本当の認識の深化にはつながりません。これではAIに負けてしまうのも当然だと思います。

ただ一方ではより主体的で対話的な教育を目指した様々な野心的な取り組みがなされてきているのも事実です。海外での事例も含めこうした取り組みに学び、どうすれば主体的で対話的な教育ができるかを真剣に考えてみる必要がありそうですが、少し長くなったので具体的な事例の紹介を含めそのあたりのことは次回にさせていただきます。

最後に、今回の話は子どもたちの発達過程のなかでも認識面に限ったものになっています。実際の発達では「他者との関係性」の面も重要ですので、これだけでは片手落ちであることは否めません。機会があればそのことも考えてみようと思います。
お問い合わせ
資料請求
見学受付